【書評】 「人間失格」

>僕は、誰なのだろう。

誰しもが一度は考えるであろうこの問いを、葉蔵は生まれてから死ぬまで、少なくとも小説の最後のシーン「サナトリウム」に収容されるまでの間、自問自答し続けたに違いありません。
葉蔵とは、鬼才・太宰治の有名な小説、「人間失格」に登場する主人公、あわれな主人公です。
私を含めた普通の人であれば(そうであると願いたいのみですが)、それが答えの出ない問答であり、答えが出ないことこそがその真理であると、半ば自分の気持ちを納得させるためだけに問いを帰着させる方法を、いつのまにか学ぶものです。そうすることが、生きるために必要だと感じるから。それが、自分自身を自らのなかに見つけることに他ならないから、です。
しかし葉蔵はそこへは向かわず、彼はただ平然と、当たり前のように彼自身の人生、「人間失格」という小説の面白さともいえる彼のこっけいな人生を歩んでいくのです。その自問自答を繰り返しながら。

>居場所。
葉蔵は、自らを探し求めることが自らの居場所を見つけることだということを、ふらふらと川面をたゆとう一枚の木の葉のように、あっちに揺られこっちに揺られしながら、気づいたのかもしれません。女性との入水自殺は、まさにその表れだったのではないでしょうか。決着という場所に、自らを置こうとしたのではないでしょうか。
ここがまた「人間失格」の面白いところでもあり、興味深いところでもあります。居場所をみつけた葉蔵は、その居場所にいるべき“自分”を見つけることが出来ないのです。“死ぬことが出来ない”のです。また居心地の良い場所を見つける、時には作り上げるものの、そこに自らの存在を感じることが出来ない。自らの存在を置くことができない。なぜなら、最初から葉蔵には“自分”という存在がないから。よって葉蔵は、なんのためらいもなくその居場所をあとにするのです。後に残されるのは、どうにも形容のしがたい、紙で結んだちょうちょ結びのような、しぼんだ水風船のような、複雑にして単純な人間関係、その影のみです。

>そして。
葉蔵、私もあなたと同じく、ゆらゆらと現代の風に流されながら、そのなかを生きています。右に振られ、左に振られ、押され、躓き、時に転びながら、懸命に今を生きています。ふと顔を上げれば、目の前にいる現代人の多くの心に、葉蔵と同じように自らを探し求めるゆらめきを見ることができるでしょう。街をゆくとき、ちょっとだけ立ち止まってみたとき、かすかに聞こえる、誰かの声。

>僕は、誰なのだろう。
誰の声でもない、それはあなた自身の声であり、私自身の声だったのかもしれませんね。
太宰治 著、「人間失格」。好き嫌いはあれ、一度は目を通しておいたほうがいい作品です。



人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)