【映画】猿の惑星 創世記-ジェネシス-観てきました【感想】

 先日から風邪の症状があったのですが、なんとか咳とのどの痛みはほぼ完治。しかし風邪の忘れ物、頭痛と発熱が長居しています。そんな新入社員。

 どうも、街角美人です。

 さて週末、ロキソニンと栄養ドリンクでドーピング、映画館まで足を運んで観てきました猿の惑星。新生・猿の惑星。その名も猿の惑星 創世記。3回も言ってしましました(^q^)

 はい、猿の惑星 創世記-ジェネシス-です。

■続きを読む■(本体ブログに飛びます。ネタバレ注意)

【映画】インセプション

毎日のように気温は30度を越え、そんなうだるような暑さのなか行ってきました映画鑑賞。2010年7月23日全国ロードショーの映画、監督は鬼才クリストファー・ノーラン。彼が脚本まで手がけたという「インセプション」は、“夢”や“深層心理”といったややもすれば安っぽくなりがちな難しい題材の作品、その先行上映です。


■作品情報
作品名:インセプション
メディア:映画
公開日:2010年7月23日全国ロードショー
配給:ワーナー・ブラザーズ
出演:レオナルド・ディカプリオ渡辺謙、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、マリオン・コティヤールエレン・ペイジトム・ハーディキリアン・マーフィトム・ベレンジャーマイケル・ケインほか


主人公は、言わずと知れた二枚目俳優のディカプリオ。彼はここに来て精神的な作品に多く出演しているように感じます。またよく言えば演技だけではなく肉体的にも貫禄が出てきた気がします。シャッター・アイランドでもその片鱗を見ることが出来そうです。今回、日本からは渡辺謙さんが出演。味のある日本人をさらりと演じています。



⇒以下、ネタバレを含むことがありますので、ご注意ください。







さてあらすじですが、公式サイトには
「コブ(ディカプリオ)は、人が一番無防備になる状態、つまり眠っているときに夢を通して潜在意識に侵入し、他人のアイデアを盗み出すという犯罪分野におけるトップ・スペシャリスト。そんな彼に、「インセプション」と呼ばれる最高難度のミッションが与えられ、コブをリーダーとする最強の犯罪チームは、命を懸けた、究極のミッションに挑む−−−。」
とあります。

映画を見終わったときに感じたのが、ミッション・インポッシブルやチャーリーズ・エンジェルを見たときに感じる「依頼の理由(結果)はどうでもいい感」でした。これは悪い意味ではなく、そこがこじつけに感じないほどの本筋の作りこみと表現があったと考えています。
内容については、他人の夢にダイブし相関関係のバランスが現れながらもそこで行動するというスリリングなシーン、また心の抑制機能が作用し防衛細胞のように働く夢の中の“影”たちとの戦闘、主人公の心の闇とが深く絡み合い、文字通りそのすべてが織り成す一本の映画として作り上げられています。
作品自体は148分と短くないのですが、内容が詰め込まれておりもっと丁寧に書き込んで欲しいとも感じました。それだけ内容は濃く、また飽きさせないアップテンポでありながらもしっかりと話が入ってくる、心地のいいつくりです。

登場人物の誰かの深層心理をのぞいている感覚もありながら、映画が終わって物語を思い返すときには、監督クリストファー・ノーランの考える深層心理がどのようなものなのかが見えてくる、彼の頭の中をのぞいている感覚がある、そんな作品です。

幾層にも重なる“夢”の連鎖。すべてがすべてに関連性をもち、何かと何かが作用しあい、それはつねに目的どおりにはいかず、だからこそ“生きる”ということはエキサイティングでドラマチックで、またにがく辛い、愛すべきものなのかなと、そんなことを思ってみました。


最後に、ディカプリオの“への字口”が最近のお気に入りです。賛同者はいますか?

インセプション公式サイト

【書評】「日はまた昇る」ヘミングウェイ

誰もが通る、幼年期。肉体的に子供である時期のこと、また精神的に子供である時期こと。もしくはその両方を指して、幼年期と表現したりします。

ヘミングウェイの不朽の名作、「日はまた昇る」は、ロスト・ジェネレーション(自堕落な世代)と表現されるある世代の若者たちを、生き生きと、また生々しく、そして血生臭く書き上げています。
禁酒法時代のアメリカで育ち、祖国への愛国心もないままそこを去り、彼らはパリでその日を生きています。

目的のないひがな一日。虚無感を感じつつも、混沌と秩序の入り乱れる世界で、目前の享楽に身を落とす。20世紀初頭を舞台にした小説でありながら、私はこれが21世紀を迎えた現代社会に生きる若者たち、我々となんら変わらないのではないかと感じました。

もちろん、生活をするために仕事もするし、明日のために勉強もする。身を立てるために対外的に行動もする。世界という社会の仕組みがかわっているから、行動も多少は違えど、気持ちのあり方はいつの時代の若者も同じなのかなと思いました。

希望、夢、目標。

すべての人が、それをもとに行動する社会なんて、そんな気持ちのわるいものはありません。心のどこかに、いくらかそのかけらがあるだけで、いい気がします。

さて、そのかけら。

今、現代社会はそのかけらさえも心に見つけることが難しい、そんな社会だったりします。競争原理で成り立つ社会ながら、学校ではそれを教育から排除し、負けることの大切さを理解させない。負けることがないから、勝つことの必要性、重大さを感じない。負けることがないから、負ける世界が「一般社会」であることを理解しない。理解できない。それによって見つけることのできる自分の居場所を、発見できない。そんな社会だから、希望のかけらを持つことができない。

衝動的に行動する。衝動にかられたままの言動。明日を見据えない、心。それは、自分の居場所が見当たらないから。自分という概念が、この世界に存在していることを俯瞰から見ることができていないから。
ちょっと、さみしいですね。

じつはそのかけら、私たちの足元に落ちているものなんですよね。ただ、見えていないだけ。
1900年代のロスト・ジェネレーションの生き方を、現代のロスト・ジェネレーションが「日はまた昇る」を読むことで追体験する。「目的のないひがな一日。虚無感を感じつつも、混沌と秩序の入り乱れる世界で、目前の享楽に身を落とす。」ことを追体験する。この経験を、小説を想像力で補完しながら経る事こそが、いつしか心のどこかに希望のかけらをみつけるための、もっとも大切なことのように思います。

遊ぶこと。楽しむこと。喜ぶこと。笑うこと。泣くこと。怒ること。ふてくされること。たくさんの感情をあらわにして、たくさんの感情をあらわにされて、混沌と秩序は表裏一体であり隣人であることを理解する。感じる。生きるってそういうことなんだって、感じる。とてもとても、大切なはずです。

ジェイクとブレッド、そしてビル、コーン、マイク。彼らの感じた情熱と血のにおいは、いまの現代社会そのまま。彼らのこれからが光のあふれる世界であってほしいという希望と同じだけ、私たちの未来も、そうあってほしいとおもう。

もうちょっとだけ、「希望や夢、目標」なんて格好のいいものじゃなくていいから、明日の悦びを祈ることのできる自分になりたい。たくさんの経験から、すなおにそう思える自分に、なっていきたい。

ヘミングウェイって、えらいなあ。なにも考えていない私に、ちょっとだけ考えることをさせるんだもの。オトナになるって、こういうことなのかな。

さあ、フィエスタの始まりです。

日はまた昇る (新潮文庫)

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老人と海 (新潮文庫)

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【映画】「人間失格」

2010年2月20日公開、太宰治原作の映画「人間失格」。遅ればせながら観てきました。遅ればせながらといえば、公開からかなり時間のたつ「AVATAR」も先日観てきました。こちらも近々、感想を書きます。


■作品情報
作品名:人間失格
メディア:映画
公開日:2010年2月20日
配給:角川映画
出演:生田斗真伊勢谷友介寺島しのぶ石原さとみ小池栄子、坂井真紀、森田剛ほか


このブログを立ち上げてからまだ一度しか記事を投稿していませんが、その投稿も「人間失格」でした。こちらは小説ですが、そんな私が本を読み始めたのはじつは最近の話で、色々と活動を始めたことで自分に足りないたくさんのものが目に見えてきたために、それを補う一つの方法として読書を始めたのがきっかけです。
そして読んだ、「人間失格」。

「私の人生を変えた、一冊です」

なんて、格好のいいものではありませんでした。作者太宰という滑稽で愉快な人間を知る、一つの接点に過ぎませんでした。ただ、その接点は、しっかりと私の心に爪あとを残したのです。


今回観てきた映画「人間失格」は、そんな接点を思い出させるに足る作品でした。

パンフレットの表紙は、主人公の大庭葉蔵を演じた生田斗真さん。小説の中で表現された色男は、もっと色褪せながらも艶っぽい、陰のある細い男性と考えていたのですが、なかなかどうして、生田さんの演じる大庭葉蔵も十二分に“葉蔵”でした。


作品自体の内容については、広く一般に知られるそれと同じなので説明を省きますが、上記の葉蔵が葉蔵たりえたのは、対を成す登場人物、伊勢谷友介さん演じる堀木正雄の毒があったからではないでしょうか。
どちらが毒で、どちらが薬なのか、どちらが陰でどちらが陽なのか、どちらが負でどちらが正なのか、そんな野暮な定義を必要とする作品でないことはご承知のとおりですが、私は彼らのそんな滑稽な関係こそが、世のバランスなのではないかと感じています。そこかしこに存在する人間関係のすべてが、映画で描かれる葉蔵と堀木の間のそれと同じなのではないか、ということです。


その二人が行動を共にする場面が多くあるのですが、それはまさに“地獄”です。


以前の、小説を評した記事にも書きましたが、居場所を探し続ける葉蔵に訪れるのは、地獄です。この世のものとは思えない、神の仕打ちとも取れる、地獄。石原さとみさん演じる良子との生活を見舞った災いは、まさに地獄そのものでした。小説で内容を知っていたとはいえ、それでも目を背けたくなるものです。


生きるとは、なんと残酷なことなのでしょうか。


彼に訪れた出来事は、それはすべてが地獄でした。
葉蔵とは違う人生を歩む私ですが、私の眼下に広がるこの世界は、地獄なのではないでしょうか。いや、生きること自体が地獄なのではないでしょうか。私にはそう思えて仕方がありません。


明日の地獄のために、今日はもう寝ることにします。


映画としての、エンターテインメント作品としての良し悪しの判断は私には難しいものですが、多少の加筆はあれ小説に寄り添った作品であり、その魅力を十分に引き出したものであると感じました。太宰の作品に、一粒の魅力を感じたことがあるのであれば、映画館へ行くことをおすすめします。

人間失格 公式写真集 ~starring 生田斗真~

人間失格 公式写真集 ~starring 生田斗真~

【書評】 「人間失格」

>僕は、誰なのだろう。

誰しもが一度は考えるであろうこの問いを、葉蔵は生まれてから死ぬまで、少なくとも小説の最後のシーン「サナトリウム」に収容されるまでの間、自問自答し続けたに違いありません。
葉蔵とは、鬼才・太宰治の有名な小説、「人間失格」に登場する主人公、あわれな主人公です。
私を含めた普通の人であれば(そうであると願いたいのみですが)、それが答えの出ない問答であり、答えが出ないことこそがその真理であると、半ば自分の気持ちを納得させるためだけに問いを帰着させる方法を、いつのまにか学ぶものです。そうすることが、生きるために必要だと感じるから。それが、自分自身を自らのなかに見つけることに他ならないから、です。
しかし葉蔵はそこへは向かわず、彼はただ平然と、当たり前のように彼自身の人生、「人間失格」という小説の面白さともいえる彼のこっけいな人生を歩んでいくのです。その自問自答を繰り返しながら。

>居場所。
葉蔵は、自らを探し求めることが自らの居場所を見つけることだということを、ふらふらと川面をたゆとう一枚の木の葉のように、あっちに揺られこっちに揺られしながら、気づいたのかもしれません。女性との入水自殺は、まさにその表れだったのではないでしょうか。決着という場所に、自らを置こうとしたのではないでしょうか。
ここがまた「人間失格」の面白いところでもあり、興味深いところでもあります。居場所をみつけた葉蔵は、その居場所にいるべき“自分”を見つけることが出来ないのです。“死ぬことが出来ない”のです。また居心地の良い場所を見つける、時には作り上げるものの、そこに自らの存在を感じることが出来ない。自らの存在を置くことができない。なぜなら、最初から葉蔵には“自分”という存在がないから。よって葉蔵は、なんのためらいもなくその居場所をあとにするのです。後に残されるのは、どうにも形容のしがたい、紙で結んだちょうちょ結びのような、しぼんだ水風船のような、複雑にして単純な人間関係、その影のみです。

>そして。
葉蔵、私もあなたと同じく、ゆらゆらと現代の風に流されながら、そのなかを生きています。右に振られ、左に振られ、押され、躓き、時に転びながら、懸命に今を生きています。ふと顔を上げれば、目の前にいる現代人の多くの心に、葉蔵と同じように自らを探し求めるゆらめきを見ることができるでしょう。街をゆくとき、ちょっとだけ立ち止まってみたとき、かすかに聞こえる、誰かの声。

>僕は、誰なのだろう。
誰の声でもない、それはあなた自身の声であり、私自身の声だったのかもしれませんね。
太宰治 著、「人間失格」。好き嫌いはあれ、一度は目を通しておいたほうがいい作品です。



人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)