【書評】「日はまた昇る」ヘミングウェイ

誰もが通る、幼年期。肉体的に子供である時期のこと、また精神的に子供である時期こと。もしくはその両方を指して、幼年期と表現したりします。

ヘミングウェイの不朽の名作、「日はまた昇る」は、ロスト・ジェネレーション(自堕落な世代)と表現されるある世代の若者たちを、生き生きと、また生々しく、そして血生臭く書き上げています。
禁酒法時代のアメリカで育ち、祖国への愛国心もないままそこを去り、彼らはパリでその日を生きています。

目的のないひがな一日。虚無感を感じつつも、混沌と秩序の入り乱れる世界で、目前の享楽に身を落とす。20世紀初頭を舞台にした小説でありながら、私はこれが21世紀を迎えた現代社会に生きる若者たち、我々となんら変わらないのではないかと感じました。

もちろん、生活をするために仕事もするし、明日のために勉強もする。身を立てるために対外的に行動もする。世界という社会の仕組みがかわっているから、行動も多少は違えど、気持ちのあり方はいつの時代の若者も同じなのかなと思いました。

希望、夢、目標。

すべての人が、それをもとに行動する社会なんて、そんな気持ちのわるいものはありません。心のどこかに、いくらかそのかけらがあるだけで、いい気がします。

さて、そのかけら。

今、現代社会はそのかけらさえも心に見つけることが難しい、そんな社会だったりします。競争原理で成り立つ社会ながら、学校ではそれを教育から排除し、負けることの大切さを理解させない。負けることがないから、勝つことの必要性、重大さを感じない。負けることがないから、負ける世界が「一般社会」であることを理解しない。理解できない。それによって見つけることのできる自分の居場所を、発見できない。そんな社会だから、希望のかけらを持つことができない。

衝動的に行動する。衝動にかられたままの言動。明日を見据えない、心。それは、自分の居場所が見当たらないから。自分という概念が、この世界に存在していることを俯瞰から見ることができていないから。
ちょっと、さみしいですね。

じつはそのかけら、私たちの足元に落ちているものなんですよね。ただ、見えていないだけ。
1900年代のロスト・ジェネレーションの生き方を、現代のロスト・ジェネレーションが「日はまた昇る」を読むことで追体験する。「目的のないひがな一日。虚無感を感じつつも、混沌と秩序の入り乱れる世界で、目前の享楽に身を落とす。」ことを追体験する。この経験を、小説を想像力で補完しながら経る事こそが、いつしか心のどこかに希望のかけらをみつけるための、もっとも大切なことのように思います。

遊ぶこと。楽しむこと。喜ぶこと。笑うこと。泣くこと。怒ること。ふてくされること。たくさんの感情をあらわにして、たくさんの感情をあらわにされて、混沌と秩序は表裏一体であり隣人であることを理解する。感じる。生きるってそういうことなんだって、感じる。とてもとても、大切なはずです。

ジェイクとブレッド、そしてビル、コーン、マイク。彼らの感じた情熱と血のにおいは、いまの現代社会そのまま。彼らのこれからが光のあふれる世界であってほしいという希望と同じだけ、私たちの未来も、そうあってほしいとおもう。

もうちょっとだけ、「希望や夢、目標」なんて格好のいいものじゃなくていいから、明日の悦びを祈ることのできる自分になりたい。たくさんの経験から、すなおにそう思える自分に、なっていきたい。

ヘミングウェイって、えらいなあ。なにも考えていない私に、ちょっとだけ考えることをさせるんだもの。オトナになるって、こういうことなのかな。

さあ、フィエスタの始まりです。

日はまた昇る (新潮文庫)

日はまた昇る (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)